令和7年10月

 ただ今、瑩山禅師のお誕生を記念する太祖降誕会の法要を執り行いました。

 瑩山禅師は、永平寺と並ぶ曹洞宗のもう一つの大本山、總持寺をお開きになり、優秀なお弟子を育てられて、現在の曹洞宗の基礎を築かれた方です。明治になって、天皇から常済大師という諡号を贈られて、曹洞宗では太祖常済大師ともお呼びしています。

 お生まれは越前国、現在の福井県です。文永元年、1264年、陰暦の10月8日、陽暦に換算して11月21日のことでした。
 お母様が熱心な観音様の信者であったこともあり、8歳になると自ら出家の志をご両親に申し出て、永平寺に上ります。13歳で道元禅師の後を継がれていた2代目孤雲懐弉禅師に就いて得度をし正式に僧侶となりましたが、すでにご高齢であった懐弉禅師はその数ヶ月後にお亡くなりになります。その後は3代目の徹通義介禅師に師事し、義介禅師が加賀の大乗寺にご開山として迎えられると、ともに大乗寺に移って仏道修行に励まれました。

 30歳を過ぎた頃のこと、義介禅師が大勢の修行僧を前に「平常心是道(びょうじょうしんこれどう)」という言葉を示されたことがあります。このとき、瑩山禅師はハッと閃くものを感じ、思わず「我れ会(え)せり、我れ会せり」(わかった、わかった)と叫びました。義介禅師が「汝、作麼生(そもさん)か会す」(どうわかったのか)と尋ねると、瑩山禅師は「黒漆(こくしつ)の崑崙(こんろん)、夜裡(やり)に奔(わし)る」(黒い漆を塗った崑崙産の玉が真っ暗闇の夜を走るようなものだ)と答えます。義介禅師はすかさず「未だ穏やかならざるところあり、更に一句を道(い)へ、看(み)ん」(まだ十分でないところがある、別の言葉に言い直してみよ)とたたみかけました。このとき瑩山禅師が答えて言われたのが、「茶に逢うては茶を喫し、飯に逢うては飯を喫す」という有名な言葉です。お茶を飲むときには雑念を交えずお茶を飲むことになりきる、ご飯を食べるときはご飯を食べることになりきる、それが「平常心是道」の世界だということです。これを聞いた義介禅師は「汝、超師の機あり、よろしく永平の宗旨を興すべし」(君は師匠の私を越えるりっぱな器量をもっている。私の法を嗣いで道元禅師の仏法を天下に弘めてほしい)と、大いに喜ばれたといいます。

 ところで、「平常心」は「へいじょうしん」と読まれることが多く、「普段の当たり前の心」と理解されています。例えば、大事な試験、試合や発表会のような特別な場面であっても平常心(へいじょうしん)で臨め、というように使われますが、その平常の心が怠惰なものであれば、特別な場面の特別な雰囲気にのまれて上がってしまったり、懸命になりきれなかったりします。しかし、何事に対しても「ふだんに張りつめた隙間のない心」、「100%の完璧を求める心」を当たり前にしているならば、特別な場面に臨んでも上がることはなく、持てる力を遺憾なく発揮することができます。それが「平常心是道」、「道」のレベルの「平常心(びょうじょうしん」です。

 以前、二度に渡ってサッカーの日本代表監督を務められた岡田武史さんが、学園で講演をしてくださったことがあります。その中に、こういう話がありました。
 岡田さんが横浜マリノスの監督に就任されたばかりのときのことです。コーチがグラウンドの四隅にコーンを立てて、その周りをランニングするように選手たちに指示を出しました。ところが、3分の2の選手がコーンの少し内側を走っていたそうです。岡田さんは「おい、コーチはコーンの外を回れと言わなかったか」と声をかけましたが、選手たちは「コーンの外も内もたいして変わりませんよ」と意に介そうとしません。岡田さんは「たいして変わらないんだったら外を回れ」と一喝したそうです。
 選手たちは、練習の中で100%を求めていなかった。「このくらいいいや」という身勝手な甘えがあった。しかし、100%と98%は違うと岡田さんは言います。その2%の差が試合でも出てしまう。懸命に走らなければいけない場面で、無意識にほんの少し手を抜いてしまう。それが負けにつながってしまうこともある。僅差をおろそかにする者は僅差に泣きます。そればかりか、僅差が積もり積もれば大差になります。

 だから、普段の小さなことから、「不断に張りつめた隙間のない心」、「100%の完璧を求める心」で臨む。たとえ雑用と思うようなことであっても、おろそかにせず、そのことになりきる。そもそも雑用などというものはありません。用を雑にするから雑用になります。雑用をつくりだしているのは自分自身の心だということです。
 私たちが確実にコントロールできるのは「今、ここ」だけです。その積み重ねで未来も創られます。自分を甘やかす身勝手な分別心をはさまず、「平常心是道」──二度とはない一つ一つの「今、ここ」に、平常心のレベルを高くして、ただひたすらになりきってほしいと思います。

(「太祖降誕会」より)