令和5年7月

 私たちは、悠久の時間の中で、先祖代々の数え切れないほどの出会いが重ねられて、生まれてきました。では、何のためにこの奇跡とも言えるいのちを授かったのか。それは、先月の朝礼でも話したように、たった一度のこの人生を、自他ともに幸せに生きていくためです。
 「明日をみつめて、今をひたすらに」、「違いを認め合って、思いやりの心を」という世田谷学園の2つのモットーは、そのための指針となるものですが、この中にある「思いやりの心」で自らの力を使い、見返りを求めないこと、これを「布施(ふせ)」と言います。したがって、世間一般でイメージされているような、金品を施す、ということだけが布施ではなく、例えば、思いやりのある言葉をかけるということも、「言辞施(ごんじせ)」あるいは「愛語施(あいごせ)」と言って、立派な布施となります。

 あるバス停での話です。
 停留所の長いすに座ってバスを待つ年配の女性と若い女性がいました。そこにもう一人年配の女性がやって来たので、若い女性は「どうぞ」と言って立ち上がりました。すると、やって来た年配の女性は「まぁ、ありがとう。でも、一緒に座りましょう」、座っていた年配の女性も「私も端にずれましょう」、そう声をかけてくれて、結局、若い女性は真ん中に座らせてもらったそうです。そして、バスを待ちながら、「お気遣いいただくと、うれしくなっちゃう」、「そうそう、自転車が横を通ると怖いけど、『すみません』と声をかけてもらうとうれしくなるの」と、二人の年配の女性がニコニコしながら話すのを聞いて、若い女性は、声をかけ合うことはこんなに心をあたたかくするのだと、改めて驚かされたということです。

 もしかしたら、せっかく言葉をかけても、期待した反応が返ってこないこともあるかもしれません。
 ある中年の女性が街を歩いていたら、若い男性がパンクの修理をしていたそうです。女性は「パンクですか?」と声をかけました。ところが、若者から返ってきたのは「見りゃわかるだろ、お前、あほか」という言葉でした。
 女性は「大変でしょうね、お困りでしょうね」という気持ちを込めて声をかけたたつもりだったので、返ってきた言葉に、悲しくなってしまったそうです。

 人は、優しい言葉をかけたら、優しい言葉を返してほしくなってしまうものです。しかし、優しい言葉をかけたときに優しい言葉を返せない人は、そのときその優しい言葉を受け止めるだけの心の余裕がなかっただけなのです。そう考えて見返りを求めない、それもまた、一つの思いやりではないかと思います。

 大切なのは、自分がいかにあるかということです。自らの中にある思いやりの心にスポットを当て、ほんの少し勇気を出して、自らの力を使うのです。そして、見返りを求めることより、そういう自分を認めてあげてほしいと思います。

 言葉だけでなく、優しく微笑みかける、困っている人を手助けする……、思いやりの心の表し方には、いろいろな形があります。お金は使うことでなくなっていきますが、思いやりの心は、それを使うことで、たまっていきます。

 たった一度の人生を自他ともに幸せに生きていく。奇跡のいのちを授かった、その意味を見失うことなく、思いやりの心に満ちた、ゆたかな明日へと向かって、ひたすらに歩みを進めてほしいと思います。

(「精霊祭」より)