令和5年10月

学校閉鎖があって少し遅くなりましたが、ただ今、両祖様のご命日である両祖忌と、達磨大師のご命日である達磨忌の法要を合わせて営みました。

両祖様とは、大本山永平寺をお開きになった道元禅師と、道元禅師から数えて4代目、大本山總持寺をお開きになった瑩山禅師のお二方のことです。この修道館のご本尊は一仏両祖といって、中央にお釈迦様、君たちから見て右側に道元禅師、左側に瑩山禅師をお祀りしています。
道元禅師は、建長5年、1253年、陰暦の8月28日に54歳でお亡くなりになり、瑩山禅師は正中2年、1325年、陰暦の8月15日に62歳でお亡くなりになりました。しかし、お二方のご命日を陽暦に換算すると、奇しくも同じ9月29日となります。そこで、この日を両祖忌としています。

一方、達磨大師は5,6世紀の頃の方で、中国禅宗の初祖、開祖とされています。もともとは南インドにあった香至国の第三王子であったということですが、出家して坐禅修行に励まれ、相当高齢になってから中国に「禅」を伝えられました。亡くなられた年は定かではありませんが、ご命日は10月5日とされていて、この日を達磨忌としています。

さて、その達磨大師が中国に渡って間もなくの頃、熱心な仏教信者であった梁の武帝に招かれて問答を交わしています。武帝の質問はこうでした。
「私は即位以来、数え切れないほど寺院を建立し、仏像を造り、お経を写し、僧侶に供養してきましたが、どんな功徳があるでしょう」
普通なら武帝は賞賛されるところなのかもしれません。ところが、達磨大師はにべもなくこう答えます。
「どれもこれも、すべて功徳にはならない」
期待していた答をもらえなかった武帝は驚いて言いました。
「これだけ仏法のために力を尽くしてきたのに、どうして功徳がないのでしょう」
これを達磨大師は
「あれもしたこれもしたと、自負したり、恩にきせたり、あるいは誉められ崇められることを期待したりしているようでは、何にもならない」
そう言って一蹴すると、武帝のもとを去ってしまいました。そして揚子江を渡り少林寺に至って、面壁九年の坐禅に入ったと言われています。

武帝が言う「功徳」とは、自分がした善行、善い行いの結果として与えられるめぐみのことです。始業式のときにも話したように、確かに「善因善果」、善行は善い原因となって善い結果を生みます。しかし、結果としてそうなるのであって、賞賛や見返りを得るといった自分の欲を満たす、はじめからそういう結果を目的として行う善行、自分のための損得勘定の善行では、どれも功徳にはならないのだよと、達磨大師は諭されています。

学園は、君たちの学外での振る舞いのことで、お叱りをいただくことがあります。自分あるいは自分たちのことしか見えず、周りの人々のことを顧みない、視野の狭い振る舞いは厳に慎まなければなりません。ただ一方で、御礼を言っていただくこともあります。つい先日は、小さなお子さんをお持ちの女性から、マンションのエレベーターの中で、学園の生徒が重たい荷物を持ってくれてとてもありがたかったというお電話をいただきました。おそらく、その生徒は、学園にそんな電話がかかってくるとは夢にも思わなかったはずです。「六波羅蜜」の一つ目に「布施」がありました。見返りを求めず、思いやりの心で他のために自らの力を使う。まさにその実践だと思います。

道元禅師は、徳が顕れるには三段階あると示されています。第一には、あの人は悪い行いはせず、善い行いは進んでする、そういう道を歩んでいると人に知られることです。そういう道を歩み続けていれば、人が見ているとか見ていないとか自ら気にせずとも、誰かの目に留まるものです。第二には、その道を慕う人が出てくること、そして第三には、同じようにその道を歩もうとする人が出てくることです。

その行いによって、人々から慕われ、同じように歩みたいと思われる。そこに賞賛や見返りではない真の功徳があるのだということを、胸に留めておきたいと思います。

(「両祖忌・達磨忌」より)