令和4年7月

 先ほどお唱えした『修証義(しゅしょうぎ)』に、「人身(にんしん)得(う)ること難(かた)し」とあります。
 「生」──「生まれる」ことの反対は何かと問われれば、多くの人は「死」──「死ぬ」ことだと答えます。しかし、「生」の反対には「生まれない」ことという答えもあるのではないかと思います。生まれてきたものにしか、「生」も「死」もありません。生きていれば楽しいことも腹立たしいこともあります。喜びもあれば哀しみもあります。しかし、生まれてこなければ何もありません。私たちはその「生」を受けています。「いのち」を与えられています。
 ご先祖様を10代前までさかのぼると、その総数は2,046人となります。10代前というとおおよそ江戸時代の中期頃になるのではないかと思います。さらに10代、室町時代あたりまでさかのぼると、ご先祖様の総数は2,097,150人にも及ぶことになります。これほど多くのいのちのリレーが途切れることなくつながってきたからこそ、今、ここに自分が存在しています。平均寿命が今よりずっと短かった時代に、もしもその中の誰か1人でも子を残すことなく亡くなっていたなら、あるいはちょっとした運命のいたずらがあって、1組でも夫婦として出会うことがなかったなら、いのちのリレーはそこで途切れて、自分がこの世に生を受けることはかなわなかったはずです。悠久の時間の中で、今、ここにいる自分へといのちのリレーがつながってきたということは、それ自体、奇跡的なことだということです。

 それだけではありません。私たちは、結ばれている多くのご縁の中で、与え与えられ、支え支えられ、生かし生かされている存在です。このいのちは、その中でこそ光り輝くことができます。
 ホスピス医の小澤竹俊さんという方がいらっしゃいます。人生の最終段階にある多くの患者さんの医療に携わってきて感じることは、「1人称の幸せには限界がある」ということだそうです。「1人称の幸せ」とは、地位や財産や名誉など、それを獲得することで得られる自分だけの幸せのことです。
 ある50代の男性は、銀行員としてがむしゃらに働いて、常に優秀な成績をおさめ、出世も果たしました。ところがある日、進行の速い悪性のがんが見つかり、最後はホスピス病棟で生活することを選びます。男性は、そこでこれまでの人生をゆっくりと振り返りました。そして気づいたそうです。「地位も年収も、今の自分を幸せにしてくれるものではなかった。自分の力で獲得してきたと思っていた幸せは、実は家族や同僚の助け、仕事先の協力があったからこそだった。人生で本当に大切なのは、愛情や友情、信頼関係など、目に見えないものなんだ」と。

 私たちのいのちは、時間的に縦につながり、空間的に横につながり合って、「今、ここ」にあるのです。

 精霊祭に因んで、このいのちがたどってきた奇跡と、結ばれている多くのご縁に感謝をして、「明日をみつめて、今をひたすらに」、「違いを認め合って、思いやりの心を」をモットーに、お互いのいのちを光り輝かせられるように生きていく、その誓いをあらたにしてほしいと思います。

(「精霊祭」より)