令和3年2月

 先ほど、涅槃会(ねはんえ)の法要を、君たちには教室からお勤めしてもらいました。

 「涅槃会」は、古来2月15日とされているお釈迦様のご命日の法要です。したがって、「涅槃」という言葉は、一般にお釈迦様のご臨終という意味で理解されています。しかし、この言葉の語源である古代インドの“nirvana(ニルヴァーナ)”という言葉には、「火を吹き消す」という意味があります。
 人間の生活には、思い通りにならないことがたくさんあります。それが「苦しみ」となります。お釈迦様は、その原因は人間のもつ様々な「煩悩(ぼんのう)」にあるとして、煩悩に支配されている状態を、「すべては燃えている」と表現されています。この煩悩は「貪(とん)・瞋(じん)・癡(ち)」という3つの根本煩悩に整理することができます。これを「三毒(さんどく)」といいます。貪はむさぼりの心、あれもほしいこれもほしいと足ることを知らない欲望のこと。瞋はいかりの心、思い通りにならなくて腹を立てたり、人を妬んだり、恨んだりすること。癡は愚癡、おろかさのこと、道理をわきまえない心のことです。この煩悩の炎を消し去ってしまえば、心は平安を得られます。「涅槃」とは、その状態のことを言います。

 お釈迦様は亡くなる直前、遺言ともいうべき「自灯明(じとうみょう)・法灯明(ほうとうみょう)」という教えを遺されています。
 「自らを灯明とし、自らをより所として、他をより所とせず、法を灯明とし、法をより所として、他をより所とすることなくして生きるがよい」
 「法」とは、お釈迦様の教えのことです。
 煩悩の炎は、放っておくとどんどん燃えさかります。それが、尽きることのない不満、対立、憎悪などを生んで、人は苦しみます。例えば、あいつが気にくわないと思えば、その気持ちを正当化しようと、相手の欠点ばかりを探そうとします。すると、ますます憎しみが募って、心は荒んでいきます。苦しみの原因は、「関わった相手」や「起こった出来事」、あるいは「置かれている環境」以上に、実は自分自身の心がつくりだしてしまっているものです。だから、自らの心をよく調えなければなりません。心を調えるから、自らを灯明とし、より所とすることができます。
 そのためにはまず、自らの感情、考え方、行動が、貪・瞋・癡の煩悩にとらわれていないか、日常の中で「今、ここ」の自分を自分で点検する、自らの脚下(きゃっか)を照顧(しょうこ)することが必要です。

 先日の新聞に、大型ショッピングモールにあるお店のレジで働く女性の投書が紹介されていました。そこは常に混雑していて、女性は正直嫌気が差していました。今は常にマスクをして顔は半分隠れているという油断もあって、女性のその「嫌気」は表情にも出ていただろうと言います。ところが、あるとき、お客さんが抱く赤ちゃんと目が合って、思わずマスクの下で大きな口を開けて微笑みかけました。すると、赤ちゃんもにっこりしてくれて、その表情がかわいかったので何度も微笑みかけると、そのたびに満面の笑みを返してくれたそうです。それは、目元しか見えていなくても、笑顔が伝わったということです。と言うことは、笑顔の少ない、いかにも嫌そうな表情も、多くのお客さんに伝わっていたということです。女性は、誰もが暗い気分になる今だからこそ、笑顔で接客しようと気を引き締めたと言います。

 「歩歩是道場(ほぼこれどうじょう)」という言葉があります。「歩歩」とは「歩み」という字を2つ重ねます。一歩一歩ということですが、つまりは日常の行動、その一挙手一投足がそのまま道場、学びの場となるということです。この女性は、いつものレジの仕事をする中で、赤ちゃんと笑顔のキャッチボールをして、自らを見つめ直しました。そして、仕事に対する「嫌気」という煩悩を鎮めて、代わりに優しさと思いやり、その象徴である笑顔を取り戻しました。自らの脚下を照顧して心を調える場は、日常の至るところにあるのです。

 自らを灯明とし、より所とできる自分に自分を育てていく、その責任者は、自分をおいて他にありません。君たちが経験する一つ一つのこと、それを道場ととらえて、脚下を照顧し、自らを育ててください。