令和2年9月

 今日は、本来なら全員が修道館アリーナに集って、両祖忌・達磨忌の法要を営むはずでした。しかし、未だそれができる状況ではなく、法要は事前に仏教専修科の先生方でお勤めしました。今、見てもらったのはそのときの映像です。

 両祖様とは、大本山永平寺をお開きになった道元禅師と、道元禅師から数えて4代目、大本山總持寺をお開きになった瑩山禅師のお二方のことです。

 道元禅師は、建長5年、1253年、陰暦の8月28日に54歳でお亡くなりになり、瑩山禅師は正中2年、1325年、陰暦の8月15日に62歳でお亡くなりになりました。しかし、お二方のご命日を陽暦に換算すると、奇しくも同じ9月29日となります。そこで、この日を両祖忌としています。

 一方、達磨大師は5,6世紀の頃の方で、もとは南インドの香至国という国の第三王子でした。しかし、出家して般若多羅尊者という方について坐禅修行に励み、相当高齢になってから中国に「禅」を伝えられたことから、中国禅宗の初祖、開祖とされています。亡くなられた年は定かではありませんが、ご命日は10月5日とされていて、この日を達磨忌としています。

 達磨大師と言えば、中国に渡った後、少林寺拳法で有名な嵩山少林寺の洞窟で、面壁九年、壁に向かって九年間坐禅を続けたということがよく知られていますが、そこへ後に達磨大師の法を嗣いだ慧可大師という方が訪ねてきたときの話もまた有名です。

 慧可大師は聡明な人物で、儒教や道教、さらには仏教学も様々に学んだそうですが、最後の最後のところで、安心(あんじん)を得られずに悩んでいました。そのようなときに達磨大師の話を聞き、少林寺を訪ねます。ところが、道にきびしい達磨大師はまったく相手にしてくれません。それは、しんしんと雪が降り続く冬の日でした。腰まで雪に埋まり、落ちる涙は凍って玉になったと言います。しかし、入門が許されなければ決して帰らないと覚悟を決めた慧可大師は、達磨大師が坐禅を続ける洞窟の前で立ち続けます。それでも、達磨大師は、「いい加減な気持ちで仏法を求めても無駄なことだ」と、入門を許してはくれません。ついに慧可大師は、自分の求道心、仏道を求める心が本物であることを示すため、刀を抜くと自分の左臂を断ち切ってしまいます。それは慧可大師の、理屈を超えたギリギリの選択でした。この並々ならぬ覚悟に、さすがの達磨大師も入門を許すに至ったといいます。

 この話は「慧可断臂(えかだんぴ)」といって、道を求める心のきびしさを表す話としてよく知られています。断は断つという字、臂(ぴ)は臂(ひじ)という字です。後で宗歌を流しますが、その中に「雪の夕べに臂を断ち」という歌詞があります。これはこの話をうたったものです。

 君たちは、何も臂を断ち切ることはないのでは、と思うかもしれません。ただ、慧可大師の仏道修行に対する覚悟、その意志の強さには、見習うべきところがあると思います。そして翻って、何となく、だらだらと日々を過ごしてしまってはいないかと、自分の脚下を顧みてほしいと思います。

 人は生きていく上でどのような覚悟を持つか。これは、人生の大問題ですが、日本の代表的な教育者・哲学者である森信三先生という方が、その答えとして、自分が持って生まれてきたいのち、そのいのちの特色を十分に発揮し実現するということを示されています。これは、世田谷学園の「明日をみつめて、今をひたすらに」、このモットーに通ずることです。そのときそのときを「明日をみつめて、今をひたすらに」生きる。一日一日、脚下のことを、愚痴をこぼさず、きちんとひたすらにやる、それを積み重ねることで、自らの内にもつかけがえのない価値が輝きを増していきます。明日が進化していきます。  君たちは、黒板の上に掲げてあるこの大切なモットーをいつも目にしています。しかし、それを眺めていても、言葉として知っていても、それだけでは身についたとは言えません。両祖忌達磨忌に因んで、「明日をみつめて、今をひたすらに」、このモットーを自らのモットーとして生きる、その覚悟をあらたにほしいと思います。