校長のおはなし
archives

令和元年12月

 『ジャータカ』という、お釈迦様の過去世における修行物語を集めた仏典の中に、こういう話がある。

 森が火事になった。森に住むたくさんの動物のうち、リスやウサギ、ネズミなどの小さな動物たちは、一目散に逃げ出して行った。

 一方、ライオンやゾウ、トラたちは、力を合わせて消火活動を始めた。しかし、努力の甲斐なく、火の勢いはますます盛んになっていく。そこで、ライオンが叫んだ。

 「駄目だ! これ以上の消火活動は危険だ! 逃げよう。みんなで逃げるのだ!」

 ライオンのこの号令で、みんなは安全な場所へ避難した。

 ところが、そんなとき、一羽の小鳥がなおも消火活動を続けていた。池に飛んで行っては羽を水に濡らし、森に戻って空から水を振り落とす。しかし、それはほんの数滴でしかない。誰の目からも無駄な努力に見えた。動物たちは、小鳥に向かって叫んだ。

 「危険だ!」「やめなさい!」「逃げるんだ!」

 けれども、小鳥は言った。

 「心配してくださって、ありがとう。でも、私はやめません。たとえ無駄だとわかっていても、私は私に与えられた力をもって、できる限りのことをしたいのです。」

 

 この小鳥こそ、お釈迦様の過去世における姿であって、普通、この話は小鳥の努力を褒め讃えたものと解釈される。

 確かに小鳥の態度は立派で、あきらめない努力を私たちは見習わなければならない。では、逃げた動物たちは非難されるべきなのかというと、決してそうではない。

 ライオンたちはギリギリまで懸命の消火活動をした。しかし、彼らは飛べない。だから、ライオンは、それ以上の消火活動をあきらめて、逃げるようにみんなに号令をかけた。誰かがその判断をしなければならない。

 リスたちは小動物であって、人間も災害があれば、まず最初に子どもたちを避難させようとする。もし、リスたちが自ら逃げるという判断をしなかったら、ライオンたちは消火活動よりもリスたちの避難にエネルギーを使うことになったかもしれない。

 この話を、それぞれがそれぞれの特性をもって、できる限りのことをした、それぞれが立派だったと理解したい。

 

 人は、自分の物差しに執着して、その物差しだけで他人の行動まで計ろうすることがある。しかし、物差しは一つとは限らない。

 摂心5日目、ただひたすらに坐る。心の中の余計な執着は、スッキリと片付けてしまおう。

 

(2019.12.06 臘八摂心でのお話から)