平成31年2月

 ただ今、涅槃会(ねはんえ)の法要を執り行いました。涅槃会とは、古来2月15日とされているお釈迦様のご命日を偲ぶ法要です。

 お釈迦様は35歳のときに悟りを開かれましたが、それをご自分のものだけにとどめず、多くの人々の利益と幸福のために法を説く決意をされて、幾度となく伝道の旅をなさっています。

 最後の旅は80歳のときでした。旅の途中、にわかに病を得たお釈迦様は、クシナガラという村で、とうとう動けなくなってしまいます。そして沙羅双樹の樹の下に横たわると、やがて見守るお弟子さんたちに「放逸(ほういつ)なること(怠けること)なくして精進するがよい」という言葉を残して、永遠の静寂の中へ旅立たれたと伝えられています。

 これを「涅槃」と言いますが、その語源であるサンスクリッド語の“nirvana(ニルヴァーナ)”という言葉には、「火を吹き消す」という意味があります。

 

 「涅槃」という言葉は、一般にお釈迦様が亡くなったことという意味で使われていますが、その語源であるサンスクリッド語の“nirvana(ニルヴァーナ)”という言葉には、「火を吹き消す」という意味があります。

 お釈迦様は、人間の生活を「すべては燃えている」と表現されています。燃えさかる炎、それを「煩悩(ぼんのう)」と言います。

 お釈迦様はこの煩悩を「貪(とん)・瞋(じん)・癡(ち)」という三つの根本煩悩に整理なさっています。これを三つの毒、三毒と言います。貪はむさぼりの心、行きすぎた欲望のことです。瞋はいかりの心、癡はおろかさを意味します。人は兎角、自分勝手な欲望をむさぼり、思いどおりにならなければ勝手にいかり、そのために歪んだものの見方をして道理にかなわないおろかなことをしてしまうこともあります。そこに「苦しみ」が生じます。

 この苦しみの原因となっている煩悩の炎を消し去ってしまえば、心は平安を得られます。その状態が涅槃であり、すなわちこれは悟りの状態です。ではなぜ、お釈迦様はすでに悟りを開いていたのに、亡くなったときを改めて涅槃と言うのか。これをお釈迦様は「第一の矢」、「第二の矢」のたとえで教えてくださっています。

 お釈迦様も我々と同じく「人」であって、当然、感覚、感情をもっていました。暑い、寒い、あるいは痛いと感じたり、花を見れば「美しい」、赤ちゃんをみれば「かわいい」、誰かが亡くなれば「悲しい」と思ったりしたはずです。これを「第一の矢」と言います。誰でも、この第一の矢は受けます。しかし、悟りを開いた人は、そのあとの「第二の矢」を受けることがありません。

 では、第二の矢とは何か。それは、たとえば、美しいと思った花を独り占めしようとしたり、あおり運転がそうであるように、少しでも気に入らないことがあると腹を立てて無謀なことをしたり、貪・瞋・癡の三毒に基づく感情が活発になってしまうことを言います。

 お釈迦様は、悟りを開いてこの「第二の矢」を受けることがなくなりました。つまり、涅槃の状態に至ったということです。そして、80歳で亡くなられて、「第一の矢」を受けることもなくなりました。そこでこれを「完全な涅槃」、「大般涅槃(だいはつねはん)」と言いますが、単に涅槃と言えば、多くはこの完全な涅槃を指すようになっています。

 

 以前、ダライ・ラマ法王が来校されたとき、ある生徒の「生きていくうえで欲望はすべて断ち切るべきなのですか」という質問に、法王はこうお答えになりました。

 「欲望には二つの種類がある。一つ目は、より執着の心と関連をもつ意味での欲望。これはたくさんの問題を引き起こすものなので、なくすべきだ。二つ目は、世界平和を望んだり悟りを得たいと思ったりする欲望。これは欲望を果たすということの正当性があるので、益々高めていく必要がある」

 法王のおっしゃる一つ目の欲望とは、我欲、自己中心的な欲望のことです。この欲望に執着すると、貪・瞋・癡に基づく感情が活発になってしまいます。気に入らないと思う人がいれば、その感情を満たすためにさらに相手の欠点を見つけ出し、その欠点を勝手に嫌悪し、いかり、それを相手にぶつけて傷つけてしまうことがあります。これは、相手に矢を放っているつもりが、自分自身も「第二の矢」の連射を全身で受けるようなもので、相手も自分も苦しむことになります。

 一方、法王のおっしゃる二つ目の欲望とは、「慈悲の心」に基づく願いや祈りであって、もはや欲望と訳すべきではないかもしれません。「慈悲」の「慈」とは人に喜びをもたらすこと、「悲」は人の苦しみを取り除くことを意味しています。

 先日、今年本校の中学入試を受験された小学生の保護者の方からお手紙をいただきました。入試当日、通りかかるお兄さんたちが口々に、「頑張ってください!」とお子さんの目をしっかりみつめて声をかけてくださった、それが実に穏やかで心がこもっているということが強く伝わってきた、それでお子さんは落ち着いて試験を受けることができたということでした。先月話した四摂法(ししょうぼう)の一つにあった愛語、慈悲の心がこもった言葉がもつ力の大きさを思い知らされます。それは、君たちが内にもつかけがえのない価値の輝きです。

 

 ひとたび貪・瞋・癡の連鎖が始まると、その炎は無意識のうちに2倍3倍となって燃えさかります。だから、意識してその炎を鎮め、慈悲の心を発動する。毎日の生活の中で、それを当たり前に実践していく。そう努めていく。お釈迦様は「あたかも母親が自分の子どもを命を賭して守るように、一切の生きとし生けるものに無量の慈しみの心を起こしなさい。全世界に対して無量の慈しみの心を起こしなさい。上に下に横に、障害なく怨みなく、敵意なき慈しみを行いなさい」とおっしゃっています。

 たとえ些細に思えることであってもかまわない。その一つひとつが、間違いなく「違いを認め合って、思いやりの心を」もった「明日」の種となるのだということを、改めて胸に刻んでほしいと思います。