平成30年10月

 ただ今、両祖様のご命日である両祖忌と、達磨様のご命日である達磨忌の法要を合わせて営みました。

 

 両祖様とは、大本山永平寺をお開きになった道元禅師と、道元禅師から数えて4代目、大本山總持寺をお開きになった瑩山禅師のお二方のことです。道元禅師は高祖承陽大師、高祖様、瑩山禅師は太祖常済大師、太祖様ともお呼びしています。この修道館のご本尊は一仏両祖といって、中央にお釈迦様、君たちから見て右側に道元禅師、左側に瑩山禅師をお祀りしています。
 道元禅師は、建長5年、1253年、陰暦の8月28日に54歳でお亡くなりになり、瑩山禅師は正中2年、1325年、陰暦の8月15日に62歳でお亡くなりになりました。しかし、お二方のご命日を陽暦に換算すると、奇しくも同じ9月29日ということになります。そこで、この日を両祖忌としています。

 

 一方、おきあがりこぼしの「だるまさん」で親しまれている達磨様、達磨大師は、5、6世紀の頃の方で、中国禅宗の初祖とされています。もともとは南インドの方で、出家して般若多羅尊者という方のもとで坐禅修行に励まれたのち、相当高齢になってから中国に禅を伝えられました。「面壁九年」、嵩山少林寺の洞窟で、壁に向かって9年間坐禅を続けられたという話は実に有名です。そうしたことから、七転び八起きの「だるまさん」は、不屈の意志と努力の徳が宿っているとされています。達磨大師の亡くなられた年は定かではありませんが、ご命日は10月5日とされていて、この日を達磨忌としています。

 

 このあと、宗歌をうたいますが、その中に達磨大師や道元禅師に関係している歌詞があります。そこで今日は宗歌の意味について話をしておきたいと思います。
 歌詞の冒頭、「花の晨(あした)に片頬笑み」は、「拈華微笑(ねんげみしょう)」をうたったものです。「拈華」は花を手にすること、「微笑」は微笑みのことです。お釈迦様がある日の説法で大勢のお弟子を前に、無言のまま一輪の金波羅華(こんぱらげ)の花を掲げられました。誰もが意味を理解できず黙っている中で、摩訶迦葉(まかかしょう)という方だけがその真意を理解して、にっこり微笑まれたと伝えられています。お釈迦様が示された花一輪、そこに真理が現れているのだということです。このときお釈迦様は、「私の教えのすべてを迦葉に伝える」と宣言されたということです。

 

 次に続く「雪の夕べに臂(ひじ)を断ち」、これが達磨大師にまつわる歌詞です。あるとき雪の降り積もる中を、少林寺の洞窟で坐禅を続ける達磨大師のもとに慧可という方が訪れて、入門を願い出ます。ところがどんなに頼んでも、「いい加減な気持ちで仏法を求めても無駄なことだ」と達磨大師は相手にしてくれません。慧可はとうとう自分の臂を切り落とすことで教えを請う真剣な決意を表したと伝えられています。これは「慧可断臂(えかだんぴ)」といって、道を求める心の厳しさを示す話としてよく知られています。「断臂」の「断」は「断つ」、「臂(ぴ)」は「臂(ひじ)」という字です。のちに慧可大師は達磨大師の法を嗣いで中国禅宗の二祖となられました。
 こうして師から弟子へ脈々と受け継がれてきた仏教・禅の教えは、やがて中国での修行から戻られた道元禅師によって日本に伝えられ、瑩山禅師によって全国に広められました。

 

 そして最後の歌詞、「荒磯の波も得よせぬ高巌(たかいわ)に かきもつくべき法(のり)ならばこそ」、これは道元禅師が詠まれた歌からとったものです。荒磯にそそり立つ、波も打ち寄せることのできない高い岩にも掻(か)き付く海苔があるように、教えは、あらゆる困難を乗りこえて求め伝えようとする人々の、書き尽くし、書き残そうとする努力が積み重ねられて、正しく伝わるのだということです。
 世田谷学園の根幹には仏教・禅があります。それは身心を尽くして精進を重ね、内にもつかけがえのない価値を光り輝かせた多くの存在がつながってきたからこそです。宗歌は後に続くものが、そのことに思いを馳せ、自らの道に精進することを誓う歌でもあります。

 「明珠在掌(めいじゅざいしょう)」という言葉があります。「明珠」は「明るい珠」、「宝の珠」のことです。「在掌」は「掌に在り」と書きます。つまり、宝の珠はどこか遠くにあるのではなく、すでに自分の手の中にあるということです。宝の珠がどこか遠くにあってそれを探すのであれば、一生の内に見つからないかもしれない。しかし、すでに自分の手の中にあるのだから、大切なことは宝の珠をひたすらに磨くプロセスです。磨き続けることで宝の珠は必ず輝きを増していきます。
 一人一人が「明日をみつめて、今をひたすらに」、強い覚悟と不屈の意志をもって精進を重ねていく、そしてかけがえのない価値を光り輝かせる、そのことを自らに誓って、このあとの宗歌をうたってください。