平成30年2月

ただ今、涅槃会(ねはんえ)の法要を執り行いました。
 涅槃会は、古来2月15日とされているお釈迦様のご命日の法要です。したがって「涅槃」と言えば、お釈迦様のご臨終ということで一般には理解されています。しかし、もともとは「火を吹き消す」という意味を持つ、古代インドの“nirvana(ニルヴァーナ)”という言葉を音訳したものです。
 人間の生活には、思い通りにならないことがたくさんあります。それを「苦しみ」と言います。お釈迦様は、その原因は人間がもつ様々な「煩悩」にあるとして、煩悩に支配されている状態を、「すべては燃えている」と表現されています。煩悩は、「貪・瞋・癡」という3つの根本煩悩に整理することができます。これを「三毒」と言いますが、貪はむさぼりの心、瞋はいかりの心、癡はおろかさのことです。この煩悩の火を消し去ってしまえば、苦しみはなくなり、心は平安を得られます。その状態が「涅槃」です。したがって、これは悟りの状態のことでもあります。
 さて、お釈迦様は、35歳で悟りを開かれてから、80歳でお亡くなりになるまでの間、インド各地を歩き、人々に応じて懇切丁寧に法を説き続けていらっしゃいます。それは一貫して人間の自己形成の道であり、したがってこういう言葉を残されています。
「自己のより所は自己のみである。他にいかなるより所があろうか。自己のよく調御せられたるとき(自己がよくコントロールされるとき)、人は得難いより所を得るのである」
 この自己のあり方について、祇園精舎のあったコーサラという国の王がお釈迦様にこういう質問をしたことがあります。
「この世で自分より愛しいものはないという思いは是か否か」
お釈迦様は答えました。
「人の思いはどこへも行くことができる。だが、どこへ行こうとも、自分より愛しいものを見出すことはできない。それと同じように、すべて他の人も自分をこの上なく愛しく思っている。だから、自分が愛しいことを知っている人は、他の人を傷つけてはならない」
 また「身・口・意(しんくい)の三業(さんごう)」という言葉を使ってこうも仰っています。身・口・意の身は身体の身、からだのこと、口はくち、意は意思の意で心のこと、三業とは、この3つによるおこないということです。
 「何人(なんびと)にあれ、身・口・意の三業において悪しきことをなす者は、まことに自己を愛する者ではない。また、何人にもあれ、身・口・意の三業において善きおこないをなす者は、彼らこそ、まことに自己を愛する者であるということができる。おのれを愛すべき者と知らば、おのれを悪に結びつけてはならない」
 私たちは、人と人との間でしか生きることはできません。だから人間と言います。それなのに、そのことを忘れて自分中心になり、頭にきた気にくわないといった煩悩の火をもっともっとと勝手に燃え上がらせて、執拗に人を誹謗中傷してしまうことがあります。しかも、最近は人と人との間にSNSといったツールが介されることも増えてきました。現代ならではの身・口・意の三業の一つと言えます。SNSでは、相手の顔や声、その表情がわからない状態でコミュニケーションをとることになります。そのために、相手の気持ちに対する想像力が欠如すれば、煩悩の火は燃えさかる一方になります。匿名性を隠れ蓑として使うなら、ますます歯止めがきかなくなってしまいます。しかし、それらは相手を貶め傷つけるだけでなく、自分自身をも貶める行為であって、まことに自己を愛する人の行為ではありません。
 自己を愛するとは、自分が人と人との間にあること、自分と同じように他の人も自分を愛しく思っていることに思いをめぐらせ、身・口・意の三業──振る舞い、言葉、思いや考え方を正しく保つ、ということです。そのためには、貪・瞋・癡の三毒──むさぼり、いかり、おろかさといった煩悩の火が燃え上がらないように、それが習慣とならないように、自らの足もとをいつも点検し、コントロールする必要があります。そして、一人ひとりが内にもつかけがえのない価値に目を向けて、自分に厳しく、人にはあたたかい、そういう人を理想として生きていくことです。
 それが、より所とできる確かな自己を形成していく道です。だから、自分に厳しく、人にはあたたかく、この当たり前の、しかし崇高な理想を我が理想としてください。これが理想だと思って進んでいけば、道を大きくそれることはありません。涅槃会に因んで、そのことをしっかりと胸に刻んでおいてほしいと思います。