平成29年11月

 ただ今、瑩山禅師のお誕生を記念する太祖降誕会の法要を執り行いました。
 瑩山禅師は、永平寺と並ぶ曹洞宗のもう一つの大本山、總持寺をお開きになり、優秀なお弟子を育てられて、現在の曹洞宗の基礎を築かれた方です。明治になって、天皇から常済大師という諡号を贈られて、曹洞宗では太祖常済大師ともお呼びしています。
 瑩山禅師は文永元年、1264年、陰暦の10月8日、陽暦に換算すると11月21日に、現在の福井県でお生まれになりました。
 お母様が熱心な観音様の信者であったこともあり、8歳で自ら出家の志をご両親に申し出て、近くにあった永平寺に上ります。13歳で道元禅師の後を継がれていた2代目孤雲懐弉禅師に就いて得度をして正式に僧侶となりましたが、すでにご高齢であった懐弉禅師は、その数ヶ月後にお亡くなりになってしまいます。その後は3代目の徹通義介禅師を師と仰ぎ、義介禅師が加賀の大乗寺にご開山として迎えられると、ともに大乗寺に移って仏道修行に励まれました。
 30歳を越えた頃、機縁熟して大悟されましたが、このとき、義介禅師との間に交わされた「平常心是道(びょうじょうしんこれどう)」に関する問答は、とても有名です。
 義介禅師がこの言葉を大勢の修行僧を前に示されたときに、瑩山禅師はハッと閃くものを感じ、思わず「我れ会(え)せり、我れ会せり」(わかった、わかった)と叫んだといいます。そこで義介禅師が「汝、作麼生(そもさん)か会す」(どうわかったのか)と尋ねると、瑩山禅師は「黒漆(こくしつ)の崑崙(こんろん)、夜裡(やり)に奔(わし)る」(黒い漆を塗った崑崙産の玉が真っ暗闇の夜を走るようなものだ)と答えます。義介禅師はすかさず「未だ穏やかならざるところあり、更に一句を道(い)へ、看(み)ん」(まだ十分でないところがある、別の言葉に言い直してみよ)とたたみかけます。このとき瑩山禅師が答えて言われたのが、「茶に逢うては茶を喫し、飯に逢うては飯を喫す」という有名な言葉です。お茶を飲むときには雑念を交えずお茶を飲むことになりきる、ご飯を食べるときはご飯を食べることになりきる、それが「平常心是道」の世界だということです。これを聞いた義介禅師は「汝、超師の機あり、よろしく永平の宗旨を興すべし」(お前は師匠の私を越えるりっぱな器量をもった人物だ、私の法を嗣いで道元禅師の仏法を天下に弘めてほしい)と、大いに喜ばれたといいます。
 ところで、「平常心」は「へいじょうしん」と読まれることが一般的です。文字通り平常の心、ふだんの当たり前の心のことで、例えば、大事な試験や試合に臨んで上がらないようにといった文脈の中で使われます。確かにその通りではあるけれども、その平常の心がいかにあるかが問題になります。仏道では「びょうじょうしん」と読むのが本来で、「平常心是道」ですから、それは「道」のレベルのものでなければなりません。「道」のレベルの「平常心」とは「ふだんに張りつめた隙間のない心」、「100%の完璧を求める心」を言います。何事にもその心で臨むことが「なりきる」ということです。
 以前、二度に渡ってサッカーの日本代表監督を務められた岡田武史さんが、学園で講演をしてくださったことがあります。その中にこういう話がありました。
 岡田さんが横浜マリノスの監督に就任されたばかりのときのことです。コーチがグラウンドの四隅にコーンを立てて、その周りをランニングするように選手たちに指示を出しました。ところが、3分の2の選手がコーンの少し内側を走っている。「おい、コーチはコーンの外を回れと言わなかったか」、そう岡田さんが声をかけると、選手たちは「コーンの外も内もたいして変わりませんよ」と言う。岡田さんは「たいして変わらないんだったら外を回れ」と一喝したそうです。
 選手たちの中に「ただのランニングだから、このくらいいいや」という気持ちがあった。練習の中で100%を求めていなかった。しかし、100%と98%は違うと岡田さんは言います。その2%の差が試合でも出てしまう。懸命に走らなければいけない場面で、意識しなくてもほんの少し手を抜いてしまう。それが負けにつながってしまうこともある。僅差をおろそかにする者は僅差に泣きます。そればかりか、僅差が積もり積もれば大差にもなります。
 だからふだんから、ふだんの小さなことから、張りつめた隙間のない心、100%の完璧を求める心で臨む。たとえ雑用と思うようなことであっても、雑用だからとおろそかにせず、そのことになりきる。そもそも雑用などというものはありません。用を雑にするから雑用になります。雑用をつくりだしているのは自分自身の心だということです。しかし、それではかけがえのない時間を無駄に遣うことになります。
 私たちが確実にコントロールできるのは「今、ここ」です。その積み重ねで未来も創られます。自分を甘やかす勝手な分別(ふんべつ)心をはさまず、二度とはない「今、ここ」に誠心誠意の平常心で臨む。なりきる。そして、与えられたかけがえのない人生を、大切に生きてほしいと思います。(太祖降誕会でのお話から)
*「崑崙産の玉」の意味 崑崙とは、中国古代の神話上の神聖な山であり、そこから珍重されている玉石(ぎょくせき)が産出されたという。