平成29年5月

 2週間ほど前の新聞に、「勉強する若者に席を譲った女性」という投書が掲載されていました。朝の通勤電車で、立ったまま勉強していた若者に、前に座っていた年配の女性が「どうぞ、座って勉強して」と言って、立ち上がったのだそうです。若者は固辞しましたが、女性は「この年齢になるといつも譲られてばかりで、たまには譲ってみたいのよ」と笑って言いました。その言葉に、恐縮していた若者もお礼を言って座ると、「寝ちゃわないように気をつけます」とほほ笑んだということです。
 「床座施(しょうざせ)」という布施があります。「床」は「ゆか」、「座」は「すわる」、「施」は「お布施」の「施」、「ほどこす」という字です。お布施というと、法要のときにお坊さんに包むお金と思われがちですが、お金や物ばかりでなく、「無財(むざい)の七施(しちせ)」と言って、心で表す七つのお布施があります。床座施はその一つで、席を譲るということですが、すべてのものを分かち合い、譲り合う心が大切であるという意味が含まれています。
 年配の女性の行いが、床座施であることは確かです。しかし、それだけではなく、無財の七施に示されている、いろいろな布施を教えてくれているように思います。
 一般的には、若者が年配の方に席を譲ります。この若者も、座った方が効率よく勉強できると言っても、年配の女性に席を譲ってもらうのはうしろめたいと思ったはずです。それでもこの女性の好意にしたがったのはなぜか。
 根本にあるのは、女性の「心施(しんせ)」です。無財の七施の一つに数えられていて、人のために心をくばるということです。心はその人の言葉遣いや態度に映し出されます。
 例えば、女性が見せた笑顔です。これを「和顔施(わがんせ)」と言います。和やかな笑顔は、人を幸せな気持ちにします。
 もう一つ、「この年齢になるといつも譲られてばかりで、たまには譲ってみたい」という女性の言葉です。「たまには譲ってみたい」という女性の願望を叶えるためであれば、若者の席に座ることに対するうしろめたさは軽くなります。女性の言葉は、若者の立場や気持ちを慮った思いやりのある言葉だったと思います。これを「言辞施(ごんじせ)」、あるいは「愛語施(あいごせ)」と言います。思いやりのある言葉、愛のある言葉は、人を和ませたり、勇気づけたりします。ときに厳しく叱ることがあっても、相手を心から思った上での言葉なら、相手の心に響くものです。
 慈悲の心、思いやりの心で他のために自らの力を使い、見返りを求めない、それが「布施」です。学園のモットーの一つである「違いを認め合って、思いやりの心を」、そこから布施は生まれます。
 その前提となるのは、他者の存在を肯定するということです。仲のよい友だちだけでなく、たまたま道ですれ違った人、同じ電車に乗り合わせた人、どんな人にも「かけがえのない価値」がある、そのことを肯定するということです。他者の存在を肯定し、その立場や気持ちを理解しようとするから、そのために自らの力を使うことができます。
 そして、さらにその前提となるのは、「自分が、自分が」の「我」にとらわれないということです。「我」にとらわれれば、自分の行動が自分にとっての表面的な損得を基準にしたもの、自分勝手な感情にまかせたものになって、他者のことなどどうでもよくなってしまいます。そして、人を苦しめることに鈍感になります。そうして起きるのがいじめです。自分勝手な思い込みで、いじっているだけだというのも同じことです。しかし、いじめは人の尊厳を踏みにじる絶対に許されない行為です。自分の心をも貧しくします。
 冒頭で紹介した投書には、席を譲った女性の顔が、座っていたときよりも明るく、力がみなぎっているように見えた、席を「譲って」元気になる、なんとすてきなことだろう、とありました。席を譲られた若者ばかりか、周囲の人々からも温かい笑みが漏れていたとも書いてありました。
 人は誰でも、幸せに生きるために生まれてきています。見返りを求めない布施は、人の心も、自分の心も豊かにします。昨年、柔道の大野将平選手が、リオ五輪の報告会に来てくれたときに、「一日一善」を心がけているという話を君たちにしてくれました。心で表す布施は誰でもできることです。一人ひとりが、他のため、自分のため、実践してほしいと思います。(朝礼でのお話から)