校長のおはなし
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令和2年7月

 7月に入り、お盆の時期が近づいてきました。お盆は、全国的には8月が主流です。しかし、東京など一部の地域では7月に行われていて、学園でも、本来なら7月11日に、修道館アリーナにて、お盆の法要である精霊祭を営む予定でした。生徒、教職員ともに一人一つずつお供物を持ち寄って祭壇を飾り、この一年間で亡くなられた学園にゆかりのある方々のみ魂をお迎えして、全員で心をこめて読経をし、ご供養申し上げる、それが学園における伝統にもなっています。ただし、今年の法要は7月15日に仏教専修科の先生方を中心にお勤めすることにしています。君たちに法要に参加してもらうことはできませんが、しかし、精霊祭にはもう一つの意義があります。それは、君たちが、自らのいのちの不思議と尊厳に思いを致し、いかに生きるかを考えるということです。

 

 お釈迦様とそのお弟子の阿難尊者という方の間にこういう話があります。

 

あるとき、お釈迦様が阿難尊者に尋ねました。

「人間に生まれたことをどう思うか」

阿難尊者は

「喜んでおります」

と答えますが、さらに

「どれくらい喜んでいるか」

と聞かれます。しかし、それを言葉で表現するのは簡単ではありません。答えに窮する阿難尊者に、お釈迦様はこういう譬え話をしたそうです。

「果てしなく広がる海の底に、目の見えない亀がいる。その亀は、百年に一度、海面に顔を出す。広い海には一本の丸太が浮いている。その丸太の真ん中には、小さな穴がある。丸太は、風に吹かれるまま、波に揺られるまま、西へ東へ、南へ北へと漂っている。阿難よ、百年に一度浮かび上がるその目の見えない亀が、浮かび上がった拍子に、丸太の穴に、ひょいっと頭を入れることがあると思うか」

「とてもありえないことです」

と答える阿難尊者に、お釈迦様はこう教えといいます。

「ところが、阿難よ、私たちが人間に生まれることは、その亀が、丸太棒の穴に首を入れることが有るよりも、難しいこと、有り難いことなのだ」

「有り難い」、「有り難う」という言葉は、生まれてきたことに対する感謝の言葉で、この譬え話がもとになっているとも言われています。

 

 悠久の時間の中で、数え切れないほどのいのちを受け継いできたからこそ、君たちは人間として「今、ここ」にいます。現在直面している新型コロナウイルスのような感染症の流行、あるいは大きな戦争……、過去に起きたさまざまな危機を乗り越えて受け継がれてきたいのちです。その奇跡を思うとき、「天上天下唯我独尊」──人は一人一人がかけがえのない尊い存在なのだということが、素直に信じられます。しかも、家族、先生、友人……、それぞれに支えてくれる人々がいます。君たちは、縦横につながる多くのご縁のお陰様で、生かされて生きているということです。

 自分という存在もその生活も、当たり前のように思えて実は当たり前ではないのです。そのことに感謝をして生きていくとき、「明日をみつめて、今をひたすらに」生きる勇気、「違いを認め合って、思いやりの心を」巡らす慈悲が、自ずと育まれていきます。

 たった一度の人生です。君たちが豊かに幸せに生きていくことを願っています。

(zoomにて全校生徒に配信)