
校長のおはなし
平成24年1月
平成24年、明けましておめでとうございます。
Ⅱ期の始業のときに、学期の変わり目のような節目というのは、それまでの自分を振り返る、目標に向かう自分自身の心構えの総磨き直しをする、その絶好のチャンスなんだという話をしました。
年のあらたまったこの正月もまた、大きな節目です。目標そのものを設定し直すほどの大きな節目です。しかも世の中全体がそんなムードになる。いわば時の流れや環境の方から君たちにプレゼントしてくれる絶好の大チャンスです。このプレゼントを開けない手はありません。
この正月、初詣に行った人も多いと思います。私の家の近くにも神社があります。特に元旦は長蛇の列です。皆さんお賽銭を入れて願い事をしています。
これから新しい1年が始まるわけですから、この1年の幸せを祈願したり、その他諸々の願い事をしたりしたくなるのは当然です。愛すべき日本の習慣、文化だと思います。ただ、願い事をするときに、自分の力だけではどうしようもないからということを前提にしていることがあります。例えば、景気がよくなりますように、あるいは今年こそ素敵な人とめぐり逢えますように、などなど世の中全体に関わったり、偶然の要素が必要だったりすることがあります。だからこそ、祈り、願うわけですが、世田谷学園の生徒である君たちにはそこからもう一歩進めてほしい。
まず、平成24年のスタートにあたって願いを起こす。もちろん、すでに願いを起こしている人もいると思います。しかしながら、願いには、自分の意志の範囲にあるものと、そうでないものとがあります。そこで大切になってくるのは、意志の範囲にないことにとらわれるのではなく、意志の範囲にあることに心を向けるということです。言い換えれば、「こうあってほしい」という願いよりも「こうありたい」という願いに心を向ける。
例えば、暮れの話にはなってしまいますが、Ⅱ期中間試験で平均75点以上の成績良好者になることを目標にしていた人もいると思います。そのために自分のなすべきことは、どんな問題が出ても大丈夫だぐらいに試験範囲の学習をしっかりしておくことです。それが君たちの意志の範囲にあることです。苦手な部分があれば、そこから出題されないでほしいと思いますが、それは先生の決めることであって、君たちがそれにとらわれても詮ないことです。
6年生は、いよいよ大学入試です。この週末にはセンター試験があります。どんな試験も、試験が終わってしまえば、その結果の如何はもはや君たちの意志の範囲ではなくなります。天命を待つしかない。しかし、試験の前まではもちろん、試験終了の合図があるまでは、君たちの意志の範囲にあります。
願い事をするのはいい。しかし、ただ漫然と願い事をするのではなく、意志の範囲にあること、自分は何をなすのかということに心を向ける。一度、君たちの願いの中で、自分の意志の範囲にあるものは何なのか、あるいは意志の範囲にある願いを起こしているかどうかを点検してみてください。そして、自分の意志の範囲にあることは、ああだこうだと言い訳をせずにただひたすらにやる。なりきってやる。
新年、正月という大きな節目、この大チャンスの入ったプレゼントを開けない手はありません。それを開けるか開けないか、それもまた、君たち一人ひとりの意志の範囲にあります。
君たち一人ひとりが自らの意志の力を発揮してほしいと思います。
そして6年生諸君は、ぜひ意志の力を発揮して、思う存分戦ってきてください。
(朝礼でのお話から)
平成23年12月
ただ今、お釈迦様の成道を記念する法要を営みました。 先ほど8日間に渡る臘八摂心も無事終わりました。「大衆一如」という言葉がありますが、多くの生徒諸君とともに、一つになって毎朝静かに坐るのは、とても清々しいものでした。生徒諸君が参加してくれるから、私も他の先生方も坐ることができます。そのことに感謝をしています。 さて、今から約2500年前、ヒマラヤ山脈の南、現在のネパール領内、インドとの国境付近にカピラ国という小さな国がありました。西隣にはコーサラ国という強国があって、これに従属を余儀なくされていましたが、カピラ国は豊かな国で、お釈迦様は、この国に住む釈迦族の王子としてお生まれになりました。姓はゴータマ、名はシッダルタ(悉達多)といい、大切に育てられます。家には池があって美しい蓮の花が浮かび、部屋には栴檀香のかぐわしい香りがただよい、着物はすべて最上の布でできていたといいます。しかしながら、お釈迦様は大変に感受性が強く、成長するにつれて考え込むようになりました。そのことについて、経典が伝えています。 「私は、そのような生活の中にあって、ふと思った。愚かな者は、自分も老いる身であり、老いることを免れ得ないのに、他の人の老いたるを見ては、おのれを忘れて厭いきらう。考えてみると、私も老いる身である。老いを免れる術はない。それなのに、他の人の老い衰えたるを見て厭いきらうというのは、相応しいことではないはずである。そのようにおもったとき、私の青春の驕りはことごとく断たれてしまった。」 お釈迦様は病や死についても同じように思いを巡らせました。この老・病・死から何人も逃れることはできない。そう考えたとき、自分の若さに対する驕り、健康に対する驕り、生命に対する驕り、それらすべてを失ってしまった。人生の無常や苦しみに対する不安やおそれ、それは若き日のお釈迦様にとって解決をしなければならない大問題となっていたのです。 29歳のある日、お釈迦様は決然と家をいで、髪を剃り落とし、ついに出家をします。親、妻子、そして物質的に恵まれた生活すべてを捨てた。西洋の仏教学者は、これを「大いなる放棄」と呼んでいます。 当時のインドには2つの修行法がありました。 一つは、坐禅瞑想によって精神を統一する禅定、もう一つは苦行です。 出家したお釈迦様は、まず有名な二人の仙人のもとを相次いで訪れ、禅定の教えを受けましたが、この二人の教えには満足できず、ほどなくして苦行にうつります。苦行とは、肉体は悪しきものの宿るところであって、その肉体の力を弱めることで精神によりよき活動力が与えられる、というものです。お釈迦様はあらゆる苦行を行い、最後は「死に至る断食」まで試みます。しかし、それでも心の平安は得られない。苦行は出家前の享楽的な生活のもう一方の極端にしかすぎなかった。そのことに気づいたお釈迦様は、苦行をやめる決意をします。出家してから6年が経過していました。 苦行の地を離れ、河の流れに身をきよめて、村の娘スジャータから乳糜(乳粥)の供養を受けて体力を回復したお釈迦様は、一本のピッパラ樹(菩提樹)の下で結跏趺坐(けつかふざ)の坐禅に入ります。そして8日目、明けの明星が輝くのを見て、ついに成道、悟りを開かれました。それが臘月、すなわち12月の8日とされています。 お釈迦様が悟られたのは「縁起の法」であり、その教えは「三法印、四法印」、「十二縁起」、「四諦八正道」、様々に示されていますが、今日は、お釈迦様が悟りを開かれたときの喜びの様子について、話をしておきたいと思います。 それは、サンスクリッド語でこう表されています。 「ガテー ガテー パーラガテー パーラサンガテー ボーディスヴァーハ」 「ガテー ガテー パーラガテー」とは、「往きました、往きました、正しく越えて往きました」ということです。どこへ往ったのか、それは彼岸、つまり苦しみのない悟りの世界に他ならない。「パーラサンガテー」とは、「あまねく一切のものとともに、正しく、明確に越えました」、「ボーディスヴァーハ」は、「ついに成すべきことを、すべて成し遂げました、かくして悟りは完成しました」というような意味になります。 もう君たちも気づいていると思いますが、先ほどお唱えした「般若心経」の最後に出てくる「羯諦羯諦。波羅羯諦。波羅僧羯諦。菩提薩婆訶。」、これはまさにこのことを表しています。 ここで注目すべきは、お釈迦様はご自分の悟りを喜んでいただけでなく、「あまねく一切のものとともに」、「すべての人とともに」とおっしゃていることです。だから、お釈迦様は悟りを開かれて、「我と有情と同時成道」と宣言された。「有情」とは「生きとし生けるもの」を指します。つまり、自分が成道、悟ることで、自分と同様にすべての人に、生きとし生けるすべてのものに悟れる可能性があるんだと証明した、ということです。すべての人が、その人だけにしかないかけがえのない価値をもっている、仏性、本来の面目をもっている、そしてそれを光り輝かせることができるんだと、教えてくださっている。だから、お釈迦様の「天上天下唯我独尊」という言葉は、エゴイズムな意味ではなく、そこから「人は一人一人がかけがえのない尊い存在であり、誰もがりっぱな人間になることのできる力をもっている」という仏教・禅の人間観を導くことができる。そしてこの人間観に立ったとき、私たちは「明日を見つめて、今をひたすらに」生きる勇気がわいてくる。 お釈迦様も出家前には不安やおそれを抱いていた。しかし、明けの明星のもとに悟ってみれば、不安やおそれのもとになるものは何もない、自分がとらわれていたのであって、すべては縁によって生じ、縁によって滅する、その事実があるのみだということに気づかれた。 実体のない不安やおそれに心をとらわれるよりも、自分の中にあるプラスの要素を光り輝かせる。それが「逞しく生きる」ということです。君たちの中には、まだ自分の中にあるかけがえのない価値に気づいていない人もいると思います。しかし、仏性、本来の面目は、かけがえのない価値は誰もがもっている。そのことを信じよう。頭から信じよう。それを信じることもまた「明日」です。自分の中にあるかけがえのない価値とは何なのか、今それがわからなくても、みんなが必ずもっている。だから焦る必要はない。焦るなら、今しなければいけないことにひたすらに打ち込んでいないことに焦りなさい。今しなければいけないことにひたすらに打ち込む。そのために設定する身近な「明日」もまた「明日」です。それを繰り返すことで、やがて自分の中にあるかけがえのない価値に気づき、より大きな「明日」を描けるようになる。「志」をたてられるようになる。そして「今をひたすらに」生きることで、自らの価値を光り輝かせることができるようになる。 成道会にちなんで、「明日を見つめて、今をひたすらに」生きる勇気を、奮いたたせよう。
(成道会でのお話から)
平成23年11月
ただ今、創立110周年を記念する祝祷法要を営みました。創立記念日は11月12日ですが、様々な日程の関係で本日の法要となりました。
その創立記念の式辞に先立ち、君たちに報告しておきたいことがあります。それは前校長・林秀穎先生のことです。林先生は8年間に渡り校長として学園を牽引なさり、多大なご功績を残されました。そこで、先週の木曜日、11月10日に学園、同窓会、三心会の主催でご慰労会を行いましたが、その席で、理事長先生より林先生に名誉校長の称号が贈られました。そのことを、君たちにも承知しておいてほしいと思います。
さて、世田谷学園の前身は、君たちも知ってのとおり、「旃檀林」です。旃檀林は、文禄元年(1592年)、豊臣秀吉の時代に当時は江戸神田台にあった曹洞宗吉祥寺の山内に誕生した学寮です。吉祥寺は、明暦3年(1657年)のいわゆる明暦の大火で焼失し、その後の幕府による江戸再開発によって本郷駒込に移転しましたが、山門には現在も「旃檀林」の額が掲げられています。君たちも近くに行ったときには、見てみるとよいと思います。ちなみに神田台当時、吉祥寺の門前町に住んでいた人々は、大火のあと武蔵野に移り住むようになりました。これが現在の武蔵野市の吉祥寺という街のおこりだということです。
旃檀林は、江戸時代は昌平坂学問所(昌平黌)とも並び称される学寮だったと伝えられていますが、明治に入るといくつかの変遷を経て、明治35年(1902年)に私立学校令に準拠した「曹洞宗第一中学林」として、あらたなスタートを切ることになりました。学園ではこの年を創立の年としています。さらに大正2年(1913年)にはこの三宿の地に移転をしました。その移転開校式が行われたのが11月12日です。大正13年(1924年)には「世田谷中学」と校名を改称しましたが、このときに11月12日を創立記念日と定めています。
昭和に入ると戦後の学制改革にともない、新制の「世田谷中学校高等学校」となりましたが、昭和58年(1983年)、私学であることをより明確にするために、現在の「世田谷学園中学校高等学校」という名称になり、現在に至っています。
創立記念にあたり、私が君たちに切に願うのは、君たちが真の「世田谷健児」、「旃檀林の獅子児」として成長していくことです。
君たちには“Think&Share”の教育理念のもと、「明日をみつめて、今をひたすらに」、「違いを認め合って、思いやりの心を」という2つのモットーがあります。モットーは形の上で2つに分けて表現しています。しかし、これらは決して別々のものではありません。
前校長の林秀穎先生は、朝礼でよく「志」という言葉を使って君たちを叱咤激励なさいました。7月の朝礼でも「志をたて、一歩一歩目標に向かって進んで行きなさい」とおっしゃいました。目標の前にまず「志をたて」とおっしゃった。そのことに、私たちはよくよく思いをめぐらさなければいけないと思います。
目標にはいわゆる野心に基づくものもあります。しかし、野心と志は違います。野心の根底にあるのは、自己中心、我欲です。しかし、志の根底にあるのは、二度とないこの人生をどのように生きたら、自分の中にあるかけがえのない価値を光り輝かせることができるか、そしてその光で周囲を照らすことができるか、ということです。
君たちには、それぞれの「明日」があります。もちろん、まだ明確に「明日」を思い描けていない人もいると思います。君たちの「明日」は君たちの成長とともにバージョンアップしていくものだとも思います。しかし、その「明日」が自分さえよければそれでよいという自己中心的な、我欲を満たすだけの「明日」であってはほしくない。「違いを認め合って、思いやりの心を」もった「明日」であってほしい。それが、「頭を上げ、胸を張り、大地を踏みしめて堂々と闊歩する」こと、「自信と誇りと気概とをもってたくましく前進していく」こと、すなわち「世田谷健児」としての、「旃檀林の獅子児」としての生き方につながるのです。そして、そのような生き方を目指そうと、君たちが君たち自身の思いをあらたにすることこそ、何よりも素晴らしい創立記念となります。
今日はこのあと、弁論大会があります。先々週、予選が行われました。中学の部は学校説明会と重なって聴くことができませんでしたが、高校の部は4,5年生と6年生の一部を聴かせてもらいました。惜しくも予選通過がならなかった弁論にも、「世田谷健児」、「旃檀林の獅子児」の片鱗を見せる素晴らしいものがありました。その中から選ばれた弁士諸君が今日は登場します。ぜひ、自信と誇りをもって堂々と弁論してほしい。聴衆となる諸君も頭を上げてしっかりと聴いてほしいと思います。レベルの高い弁論大会となることを期待しています。(創立記念式典でのお話から)
平成23年10月 (Ⅱ期が始まりました)
君たちは、年の初めや年度の初めに1年の目標を考えると思います。それが学習面の目標であれば、その目標に向けて毎日単語をいくつずつ覚えようだとか、問題集の問題を何題ずつ解こうだとか、こういうことをしよう、ああいうことをしようといういわゆる具体的な行動目標を考え、実行しようとすると思います。その実行が毎日の中で当たり前になればしめたものです。しかし、先月の朝礼でも話したように、人間の中にある弱い心は、兎角、今日はまあいいか、などとささやいて、その継続を妨げようとします。そして君たちの中にはそのささやきにそそのかされやすい人もいると思います。一度そそのかされてしまうと、その方が楽ですから、継続へと自分を戻すことはなかなかに難しい。楽な毎日の流れに乗ってしまうと、その流れから脱出するきっかけをつかめなくなってしまう。
ところが、学期の変わり目というのは、そうした流れから脱出するための絶好のチャンスとなり得ます。楽な毎日の流れに乗っていなかった人にとっても、自分の目標、具体的な行動目標をもう一度見直すよい機会となります。
もうしばらくすると、Ⅰ期の通知表が渡されますが、通知表を待つまでもなく、答案はすでに君たちの手元にあります。それらは、この半年、あるいは3ヶ月の君たちの学習面における努力の証です。しかし、残念ながら努力したのに結果が出なかった人、あるいは努力をしなかったことの証になってしまった人もいるかも知れません。
努力しただけの成果が得られた人は、目標をレベルアップしてもよいかも知れない。一方、努力したのに結果が出なかった人は、理解したつもり、練習したつもりで終わっていたのかも知れない。本当に理解したか、定着したかなど、学習したことが自分の力になっているかどうかの確認をその都度していたか、おろそかになっていた部分はなかったか、やり方はどうだったのか、結果が出るまでにはまだ時間がかかるのか等々、これまでの自分をよく振り返ってみてほしい。努力をしなかったことの証になってしまった人は、本当に自分はこのままでよいのか、自問自答するところから始めてほしい。そして、心機一転をはかって、これからの行動を始める覚悟をつくるのです。
君たちは校門で毎朝礼をしています。この校門での礼には、いくつかの意味があります。その一つは、君たち一人一人がもつかけがえのない価値に対する敬虔の念です。礼をすれば自分の脚下が見えますが、単に身体の脚下を見るだけでなく、心の脚下を見つめ直してほしい。そして「人は一人一人がかけがえのない尊い存在であり、だれもがりっぱな人間になることのできる力をもっている」ということの意識、自分にはかけがえのない価値があるんだ、それを光り輝かすんだ、その心構えを毎朝新たにしてほしい。
君たちは毎朝歯を磨きます。昨日磨いたから今日はいいや、ではなく、毎朝磨きます。そうしなければ、歯に歯垢がたまり、やがて虫歯になってしまいます。それと同じように、心構えも毎朝磨き直すのです。心構えを垢だらけにしてはいけません。そして、一日一日を精いっぱい過ごす。帰るときには振り返って一礼をして、その日一日を精いっぱい過ごしたかを確認する。
それでも、磨き残しがでることがあります。だから、こうした学期の変わり目のような節目節目に、それまでの自分を振り返るのです。そして、目標に向かう自分自身の心構えの総磨き直しをするのです。目標に向かって何をするのかを決め直す、それを実行する覚悟を決め直す、継続する覚悟を決め直す、忍耐力を発揮する覚悟を決める直すのです。
今年度も残り半分、このⅡ期が終わるときに、自分自身で満足したと、胸を張って言えるような毎日を過ごしてください。(朝礼でのお話から)
平成23年9月
7月の朝礼でお話ししたように、8月1日より校長に就任いたしました。どうぞよろしくお願いします。
さて、夏休みが終わりましたが、長期の休暇だったので、普段とはまた違う貴重な体験ができたのではないかと思います。学校でも、4年生、5年生のカナダ語学研修、1、2年生のサマースクール、2年生のボランティア体験、部活の合宿、夏期講習等々、様々な行事がありました。その体験を体験しただけに終わらせずに、自分の成長の糧にするためにも、一人一人が今一度、振り返りを行ってほしいと思います。同時に、君たちのその体験のために、必ず陰に陽にお世話になった方々がいっらしゃるはずです。そのことにも思いを馳せてほしいと思います。
体験というのは、決して自分一人の力だけでできるものではありません。我々は直接お世話になった方、直接お世話になったことには、「お陰様で」とか「ありがとうございました」といった気持ちをもち、実際言葉にもするわけですが、目に見えないところでお世話になっていることについては、そのことにすら気づかないということが多々あります。ですから、想像力をはたらかせてみてください。自分がこの体験で何を得たか、自分のこれからにどう活かしていくか、ということを振り返ることはもちろん、自分がこの体験をするためにどれだけの方々にどのように支えられていたのか、ということも想像してみてください。そのことに気づいたとき、君たちにとってその体験はより大切な、より感動の大きなものになるはずです。
人は心の奥底に種子をもっています。それを仏性とか本来の面目といいます。簡単に言えば尊厳性、可能性のことです。我々はこの尊厳性、可能性の種子を大切に育てていかなければなりません。そのときに、「お陰様で」、「ありがとうございました」という感謝の気持ちは、やがて種子から芽が出て、天に向かってまっすぐに伸びていくための大切な養分となるはずです。
さて、夏休み前に林校長先生が君たちに課題を出したのを覚えているでしょうか。「まず忍耐力、体力をつけること、次に学力をつけること」でした。これらもまた種子を育てるための大切な養分であり、種子から出た芽をやがて太く高く成長させてくれるものと言えます。
特に林先生は忍耐力を真っ先に挙げられました。体力や学力をつけるためには、継続が必要ですが、我々の中にある弱い心は、兎角、まあ今日はいいか、などとささやいて継続を妨げようとします。その弱い心のささやきに打ち克つためには、「ここだ!ここが耐えどころだ!」という意識を常にもつことです。そうやって忍耐力を発揮することそれ自体が、忍耐力をつけることにつながります。
林先生はまた、「志をたて、一歩一歩目標に向かって進んで行きなさい。それぞれが設定したゴールに向かって突き進みなさい。」ともおっしゃいました。
自分の設定した目標、ゴールに向かい、忍耐力を発揮して「今、ここ」を精いっぱい生きようとすること、それを積み重ねて、自分自身を太く高く成長させていってほしいと思っています。
このあと、全国大会の報告会がありますが、水泳部の5人の高校生がこの夏のインターハイに出場し、その中で6年生川島君が200m平泳ぎで3位入賞を果たしました。また中学3年の政本君も200m個人メドレーで全国大会に出場しています。
そして、空手道部はインターハイ個人組み手の部で6年鳴島君が準優勝、団体組み手の部では見事に優勝を果たしました。空手道部の団体組み手優勝は、3年ぶり9度目ということです。加えて、空手道部は総合優勝にも輝いています。
これらは、目標に向かって自分の中の弱い心に打ち克ち、練習、稽古において先生方のご指導のもと、「今、ここ」に精一杯の力を尽くしたことの証であり、とても誇らしく思います。同時に、選手諸君には、そのために陰に陽に支えてくださった方々にもぜひ思いを巡らしてほしいと思っています。
今月20日からは、Ⅰ期の期末試験があります。君たちそれぞれが志をたて、目標を設定し、君たちの中にある種子を育てる努力を惜しみなくしてくれることを願っています。(朝礼でのお話)
